イエスは人の子か神の子か?
聖書にはイエスが「人の子は・・・」で始まる発言を多々しているところが記録されています. 一方,自分が神の子であるといっているととらえられられなくないことも書かれています. イエスは神の子なのか人の子なのかあるいは両方なのか? キリスト教学の難問の三位一体の考えと合わせて難しそうに思えます. はたして本当のところはどうなのでしょうか?
謎は解けた!
実はこう考えるのが最もつじつまが合います. そもそもイエスは「人の子であり,神の子だ!」なんてペテンを働くと思いますか? 新約聖書はいっぱい書いた人の思惑が反映されているものと思われ,新約聖書自体はもはやイエス自身の考えと完全には一致してません. ただし,新約聖書を書いた人たちの思惑はどうであれ,真実のイエスの考えがかなり残されていて読み取れます. まずこう考えてください. イエスはことあるたびに「人の子は・・・」で始まる発言をしていますが,この「人の子は」は一般的に普通の表現であるでしょうか? いいえそうではありませんね.例えば竜太が「人の子は」なんて自分のことを言ったら,キリスト教のことを知らない人であれば「何当たり前のことを」と思うでしょうし, キリスト教を知っている人からすれば「何偉そうに」となるでしょう.しかし,イエスの時代に自分のことを人の子なんて変な表現を使う人はいなかったので, イエスが権威付けのために「人の子」なんて表現を用いるはずはないのです.ではこれはどういう意味だったのでしょうか? イエスが良く難しい話や謎めいた話をするのでそれと関係あるのでは?と思った方もいらっしゃると思います. 僕もつい昨日まではそう思っていました. ですが,今日になって全く別のことに気づけました. イエスほど癒しの奇跡をおこなっていい話をしたら,当然「イエスは神の子だ!」と言われるのではないでしょうか? 言われるに違いないですね. そしてイエス様の性格でならすかさず「私は神の子ではなくて人の子です.」 といったはずです. そしてあまりにも神の子神の子と言われるので,イエスはことあるたびに「人の子は」ではじまる不自然な表現まで使って神の子でないことを強調していたのです.
イエスが十字架にかけられて処刑された理由
そう知ると次のことが分かります. イエスがなぜ十字架にかけられて処刑されたかが分かるのです. イエスの人気に嫉妬する人たちはたくさんいました.特に権力者たちです. 彼らはイエス様が神の子であると大変都合が悪かったのですが,逆に次のことに気づいてしまいます.
「そうだ!イエスが自分で神の子であるといっていることにしてしまおう!」
みなさん,考えてみてください.自分で自分のことを神の子なんていう例えば政治家がいたら皆さんは投票しますか? 当然しませんね.むしろこんな悪い奴なら絶対に当選させたくないと思うでしょう. それどころか死刑さえ望んだりするでしょう. そう,それがイエスが処刑された理由だったはずです.
イエス処刑の場面の不自然な点
実は聖書は捻じ曲げられた歴史も多々あるため処刑の時の様子ですら,間違いがあるのですが,その間違いも分かりました. 処刑の際,不自然な会話の流れでイエスが
「それはあなたたちが言っていることです」
と繰り返すシーンがあります. でも前後の文脈ではそれは意味不明の受け答えなのです. イエスは確かに謎めいてはいますが,それは深い理由があるからであって,単なる意味不明さではないはずなのです. 間違いなくこういうやり取りが正解だったはずです.
「答えろ!お前は神の子だといって世を惑わしたな?」
イエス:「それはあなたたちが言っていることです.」
どうでしょうか?このイエスに投げかけた質問は私が作ったのですが,この流れが一番自然だし,この流れしか逆にあり得ないでしょう? ではなぜ弟子たちはつまり使徒たちはこの部分を改ざんしたのか? それはこうに違いありません. 弟子たちはそれでもイエスを神の子にしたかったはずなのです. なにしろ高々人の子程度では権威付けが不十分ですので. そしてそのやり取りを改ざんしたかったのですが,弟子たちはあまり頭が良くなかったので, 一見して自然な流れでイエスが「それはあなたたちが言っていることです」というような話の流れを作ることができなかったのです. このため新約聖書のこの部分のやり取りは会話としてちんぷんかんぷんな展開になってしまったのです.
三位一体はあり得ない
こうして考えてみると三位一体理論は難しいというよりでたらめだったはずです. 理解できない人が多いのは難しいからではなくて単にでたらめだからに違いありません. こうしてキリスト教の謎がだいぶ解明されたと思います.
ここまで読んでくださって有難うございます. 何か間違い等ございましたら,ご報告いただけると幸いです^^